
天平勝宝4年(752年)、
大仏の目に筆で瞳を描いて魂を迎え入れる儀式−「大仏開眼供養会」−が行われました。
開眼の導師を勤めたのはインドの僧侶、波羅門僧正・菩提僊那(ぼだいせんな)です。
また、中国や朝鮮をはじめ諸外国の珍しい音楽や舞踊などが披露され、
当時の東アジアの中では最大級の国際イベントとなりました。
東大寺は鎮護国家の役目とともに、仏教の教理を広く研究することが求められていました。
華厳、法相、三輪ほかの6宗(南都六宗)を研究する組織が整えられ、
六宗兼学の寺として、今で言うところの国立総合大学の機能を持っていました。
その中で最も重んじられたのが華厳宗で、本尊として華厳の毘盧遮那仏がまつられました。
しかし、斉衡2年(855年)に大地震により仏頭が落下。
また、源氏と平氏の戦いのなか、治承4年(1180年)には平重衡の南都焼き討ちにより、大仏殿などが焼失しました。
まもなく再建されましたが、戦国時代の永録10年(1567年)、再び戦火により焼失してしまいます。
雨ざらしとなっていた大仏は修理され、元禄5年(1692年)に開眼供養会が、
続いて宝永6年(1709年)には、大仏殿の落成を祝う「落慶供養」が行われました。
その後、明治元年(1868年)に出された神仏分離令(神道を国の宗教とし、仏教と分離する政策)により、
南都の諸寺がいずれも衰えたため、大仏殿も世間から顧みられない状況となりますが、
困難をおして解体修理が行われました。
さらに「昭和の大修理」を経て現在に至っています。

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